2014年10月18日土曜日

優しさについて 子供の騒音問題をめぐって

優しさについて

子供の騒音をめぐる議論や感想を見ていると、世の中には法と対立し、それを超越する道徳があるのではないかと思うようになった。これを優しさといってもいい。

どういうことか。例えば親や子がなにか物を盗んできたとする。親は子の将来を思い、子は親のためを思う。それを互いのために世に隠す。互いに相手を思いやる美しい親子の愛情のありようである。子の将来を思えばこそじっと世に隠す。子を警察に売るなんて論外である。そのような「優しさ」を良しとする道徳があるのでないかということ。

これはつまり盗みは良くないとする法よりも人間関係や情緒を基盤とした道徳が優先されるのを良しとする文化があるのではないかということである。この時、「優しさ」というのは人間関係の内側に居る人間に対して向けられる。優しさを求めるという時、人間関係の内側にいる人間に対して要求されるということである。優しさがないというとき、人間関係の内側に居る人間に対して冷たいということである。

それは法を超越した赦しを与えなさい、ということでもある。


私がここで疑問に思うのは、親子の人間関係の外に、物を盗まれた人間が存在するということである。世の中が人に「優しさ」を求め、赦しを要求する時、その人間関係の外側にいる人間のことが忘れられているのではないか。「優しさ」が世に溢れているときに、物を盗まれた人間はどうなるのだろう。社会が子供や「子供」という概念を宝とみなし、わが子のように思う時、そして、「優しくあれ」という道徳が法と対立する時、それは本当に「優しい」と言えるのだろうかということである。


この優しさの道徳は「親子」の人間関係の外側に居る人間に対しては容赦なく冷たい。「頭がおかしい」「キチガイ」「どうかしている」「自分勝手」「存在が害悪」「早く死ねばいい」というような言葉が容赦なく浴びせられる。このような悪意が物を盗まれた人間に対して向けられる時、一体「優しさ」というものにどんな価値があるのだろうと疑問に思わざるを得ない。

これはつまり「親が子を売るなんてどうかしている」ということであろう。「お前にも子供の時代があり、親に守られていたのではないのか」という理屈が背後にある。誰だって他人に迷惑をかけずに生きている人間など居ない。それを世の中は受け入れ赦してきた。お前もまた子であり親に守られていただろうということである。つまり(さきに人間関係の外側にいると書いた)「物を盗まれた人間」もまたかつて子であり親でもある、優しさの互助関係の内側の人間でしょう、ということである。


一見正しいようにも見える。一体彼らのどこが間違っているのだろうか。


おそらく、この時混同されているのは「迷惑」と「盗み」である。騒音問題で言えば、「騒ぐ」と「騒音を出す」である。他の例を出せば「人を叩く」と「人を傷つける」である。「嘘をつく」と「詐欺を働く」である。

一体、詐欺を働いた人間を告発する時、「お前も嘘をついたことがないのか」という人がいるだろうか。傷害を起こした人間を告発する時、「お前も人を叩いたことがないのか」という人がいるだろうか。同様に「人に迷惑をかける」と「盗み」には大きな差があるし、「騒ぐ」と「騒音を出す」にも大きな差がある。

もちろん「盗み」であれば「迷惑」である。しかし逆に「迷惑」であれば「盗み」であるということにはならない。さきの理屈で言えば「お前も迷惑をかけたのだから盗みぐらい多めに見ろ」ということである。ここにおそらく誤謬がある。

そしてもう少し言えば「盗み」というものも優しさの互助関係の中ではただの「迷惑」に見なしましょうという甘えがあると見る。「騒音」ではなく「騒ぎ」とみなしましょうという甘えがある。この時、法で定められた「盗んではいけない」「基準を超えた騒音を出してはいけない」という法的な責任は一体どこにいってしまったのだろう。盗まれた人間、騒音で被害を受ける人間の財産はどうやって回復されるのだろう。

そして盗まれた人間が盗みを世に告発する時に「優しさ」が盗まれた人間に悪意を向ける時、責任から逃げた人間が盗まれた人間に悪意を向けるという時、責任放棄と悪意の点で、二重の悪であると考える。つまり「優しさ」とはある時には二つの悪徳である。



私は人間の軽微な「原罪」を理由として法を犯す人間を互いに隠しあう優しさの互助関係の道徳は支持しない。これはただの責任放棄である。優しさの互助関係が盗まれた人間に悪意を向ける時、私はこれを支持しない。これはただの社会的苛めである。
法で守られるべき人間が正当に保護され、「優しい」人間から悪意の向けられる社会でなくなることを切に願う。

0 件のコメント:

コメントを投稿