2014年12月24日水曜日

東京都による「子供の声等に関する規制の見直し」についての幾つかの疑問と問題点

 先日、東京都が子供の声を「騒音」規制対象外にとする報道があり(子どもの声を「騒音」規制対象外に 東京都が条例改正へ:朝日新聞デジタル)、東京都環境局でこれについてパブリックコメントを募集するとの知らせがあった(リンク)。合わせて提示された見直し案を読んだところいくつか疑問と問題があるように思ったのでそれを記したい。

・日程の問題
まず性急に見える日程について。朝日の報道によると2月の都議会で提案の予定とある。これが事実であれば、1月13日提出期限のパブリックコメントも形式的なものに過ぎないという印象はぬぐえない。そもそもパブリックコメントを集めた段階で、はじめて改正するかどうかを含めた方向性を決定し、その後、提案するかどうかの決定がなされるというのが筋ではないのか。既にあらかじめ議会提案の日程が予定されている(それも提出期限のすぐ後に)ということであればなんのためのパブリックコメントなのか、それに形式以上の意味があるのか分からない。東京都環境基本条例第十六条 「都は、環境の保全に関する施策に、都民の意見を反映することができるよう必要な措置を講ずるものとする。」に配慮した措置にも見えるが、このような性急な日程を見る限り、はじめから反映させる気があるようには見えない。


・専門家の意見は聴いたのか
そもそも、騒音の基準値など専門知が必要なものは、広く大衆に問う前に、音環境や法律など専門家の意見を聴く必要があるのではないかということ。
パブリックコメントの募集で市民の意見は聴けるとして、専門家の意見は聴いたのか。騒音問題はきわめて専門的な分野であり、読売新聞の榊原智子氏が指摘するように(リンク)多数決で決定すべきことがらでもない。以前、リンク先のエントリーで私はこのように書いた。

 次に榊原委員の意見について、「多数決で騒音として扱われるだけでいいのか」という問題意識があるようであるが私はこれに賛成する。騒音かどうかはあくま で騒音が人の心身に与える影響の科学的知見に基づいて決定すべきことであるように思う。ちなみに環境基本法に騒音に係る環境基準というのがあるがこれはど のように決定されているか。環境省(リンク)によると「環境基準 は、現に得られる限りの科学的知見を基礎として定められているものであり、常に新しい科学的知見の収集に努め、適切な科学的判断が加えられていかなければ ならないものである。」とのことである。騒音かどうかもこのような視点からのみ決定されるべきものと考える。例えばたばこの煙やダイオキシンがどれだけ有 害かの扱いを多数決で決めようということになるだろうか。科学的根拠を元に決定されるのではないだろうか。

条例改定の承認の段階で議会を通すのは当然のこととしても、少なくとも騒音の基準値の設定のような専門知の必要な段階では専門家の討議による科学的な知見からこれを決定すべきもののように思う。例えば環境分野の専門家集団である東京都環境審議会等を通して専門家の意見も聴いたほうがいいのではないか。この点で改定案がどのように決定されたのかは不透明であり、少なくとも環境局のウェブサイト(リンク)を見る限り、過去にこの件について審議会の開かれた痕跡も無いし、今後開催される予定もない。また見直し案の内容を見る限り科学的な知見が反映された痕跡も無い。




・子供の健やかな成長・育成を阻害しないということ
改定の理由に子供の健全な育成を阻害しないというものがあるが、これはあくまで防音の義務のある事業者がそのような手段をとってはならないということである。これが永続的で長時間の騒音の苦痛に悩む市民の権利を奪ってもいいという理由にはならないし、騒音の評価にあたって客観的指標を用いないという理由にもならない。あくまで防音対策をする事業者がそのような手段をとってはならないということである。

もちろん、防音対策をすること自体が子供の健全な育成を阻害するだとか、技術的に不可能であるということであれば話は別だが、防音対策と子供の健全な育成は両立するものであるし技術的にも可能である。例えば建物の防音性を高めるということは子供の健全な育成を阻害するということにはならない(カラオケ屋やピアノ教室にできることが保育業界にできないという時、それに怠慢やコスト削減以外の理由があるのだろうか?)。立地を選ぶ、指導方法を見直すということも同様である。


・判断基準が曖昧であるということ
さて、見直し後、条例違反とされる「騒音」はどのように判断されるのか。『環境確保条例における子供の声等に関する規制の見直しについて(本文)』(pdf:リンク)によれば子供の声等は「規制基準を定めていなもの」に該当することになり、数値規制は適用されない。「人の健康や生活環境に障害を及ぼすおそれのある程度を超えているか否か」が新たな判断基準となる。「生活環境に障害を及ぼす」とは「一般社会生活上受忍すべき程度 (受忍限度)を超える障害を及ぼすことだという。

一体、騒音を評価するに当たって、騒音レベルという客観的指標をもちいず、受忍限度はどうやって判断されるのか。以下同文書から引用する。

受忍限度を超えているか否かの判断に当たっては、単に音の大きさだけによるのではなく、音の種類や発生頻度 、影響の程度、音を発生させる行為の公益上の必要性 、所在地の地域環境、関係者同士でなされた話し合いやコミュニケーションの程度や内容、原因者が講じた防止措置の有無や内容等を十分に調査した上で、総合的に考察する。

「単に音の大きさだけによるのではなく」という表現に注目したいが、ここで、適用されないはずの数値規制が必要条件として復活してるように見える。あるいは必要条件で無いとするならば、従来は条例に違反する騒音として判断されなかった程度のささいな、例えば30db程度の音量であっても騒音に値するケースが出ることになる。例えばささやき声であっても極度の聴覚過敏やささやき声フォビアを有する市民が「健康や生活環境に障害」があると認められた場合、騒音とみなされるのか。おそらくそういうことはないだろうから必要条件になったと解するのが妥当であると考える。繰り返すようだが、そうでなければささやき声程度の音量であっても騒音に相当するケースも出てくることになる。

そもそも騒音を評価するにあたって、騒音レベルという指標を用いないということに無理がある。長さを測るのにメートル法やヤード法を使わないようなものである。「単に音の大きさだけによるのではなく」とあるのが示すように、最低限でも必要条件として数値規制が必要なことの証左ではないか。そうでなければ受忍限度を判断するに当たって客観的基準を失うことになる。それが意味するのは、騒音を評価するに当たって主観で判断されるということである。具体的には担当する職員の主観次第ということになる。これが騒音の紛争を解決するに当たって賢いやり方だろうか。

他の理由、公益や所在地、コミュニケーションの程度や内容?等という諸条件も曖昧で、やはりその判断は職員次第ではないかという疑問がある。コミュニケーション云々に関しては私にはまるで意味が分からない。そもそも話し合いで解決しないからこそ、最終的な拠り所として行政の指導があり、苦情の正当性を図るための騒音基準があり、また司法があるのではないか。また、原因者が防止措置をとったところで、例えば従来の規制値を超える時、それにどんな意味があるだろう。

また数値規制を撤廃し、新たに曖昧な判断基準を設けるということであれば、その判断基準をなぜすべての騒音案件において適用しないのか。この方法に問題がないのであればすべての騒音の案件においてこれを適用すればよいのではないか。逆にそうしないということであればこの判断基準に問題があるということではないか。


最後に、この問題は子供とクレーマーの対立という図式ではなく、保育業者とその施設から出される騒音に悩む市民という構図である(もちろん全ての苦情に正当性があるというわけではないだろう。その苦情の正当性を判断するために騒音レベルで表される騒音基準がある)。この条例の見直しで免除されるのは子供の責任ではなく、保育業者の責任である。そして防音対策は技術的に不可能なことではないし、子供の健全な育成を阻むものでもない。繰り返すが、カラオケ屋やピアノ教室にできることが保育業界にできないという時、それに怠慢やコスト削減以外の理由があるのだろうか?一部業者の怠慢やコスト削減に条例改正でお墨付きを与えることが果たして正しいことだろうか。そして無責任な一部業者に防音というコストを免除させる代わりに、近隣住民から平穏を奪い、騒音という苦痛を強いることが正しいことなのだろうか。



これは以前騒音問題があるとして報道で名前の出た保育園である。車の幅を見て欲しいが、住宅から車の幅ほども離れていないところに小さな園庭と思われる場所がある。おそらく2メートルも離れていない。少し身を乗り出して手を伸ばせば届くのではないか。居住空間から2メートルも離れていない場所が「いくらでも騒いでもいい場所」になることを想像してみて欲しい。しかも子供は一人や二人ではなく百人単位である。また、数年我慢すれば成長していなくなるというものでもない。新しい子供は次々と入園してくるし、保育園が存続する限りほぼ毎日、長時間、永続的に続くわけである。この騒音に終わりは無い。

このような住宅密集地に保育園を建てるという時、防音対策をするのは当然の配慮なのではないだろうか。むしろ防音対策を施し、従来の数値規制を守ることでこのような場所にも保育園を建てることが容易になるのではないか。今回の条例改訂が実現した場合、数値規制がなくなることで保育業者の責任は免除されることになるが、逆に新規の保育園開設が困難になることが予想される。市民が音環境の悪化を避けるためには近隣の新規建設に対して反対するという手段しか残されていない。数値規制が無い以上、一度出来てしまえば終わりである。少なくとも騒音レベルを根拠にした行政の指導は期待できない。これでは保育園増設というもともとの目標と逆行するのではないか。関係者には一度冷静な議論を期待したい。

2014年12月23日火曜日

「無責任化」する保育事業主

平成26年10月24日(金)に行われた第19回子ども・子育て会議(リンク)の議事録では駒崎氏のみが子供の騒音について言及しているようだった。これも前回と同様引用して私見を述べてみたい。

駒崎委員: そして、認定こども園という問題に直接かかわりつつ、また認定こども園だけでなく多くの保育所、幼稚園にかかわることですけれども、前回も提起させていただきましたが、騒音問題に関してぜひ御検討いただきたいということを重ねて申し上げたいと思っております。
実 は、今、複数の基礎自治体の方とお話ししていく中で、保育課の担当者の方が悩まれていることの1つがまさに騒音問題なのです。住民の反対運動が過激化して いるという状況があって頭を悩ませています。例えば、私、資料に書きましたけれども、先日の産経新聞の報道では、こうしたタイトルで書かれています。「子 供の声は『騒音』か…脅迫、訴訟、保育所そばに『ドクロ』『般若』の看板まで」というようなタイトルで、要は逮捕者も出たという話なのです。東京都の国分 寺市ですが、認可保育所近くの路上で園児を迎えにきた保護者に手斧を見せ、地面に数回振り下ろすなどして脅迫したとして、近所の無職の男が暴力行為処罰法 違反の疑いで逮捕された。園児の声がうるさい、帰り道に近所のアパートに入り込んでいた、対応しないなら園児の首を切るぞなどと職員を脅したということを 言っています。
これは過激な事例ですけれども、実際これに似たような、近似するような事例というのはぼこぼこ挙がってきているのです。私どもの施設にもパイプ椅子を持って怒鳴り込んできている人とか出始めてきていて、既に常軌を逸している状況になっております。
こ うしたことに対して防音化支援の政策メニューをつくるであるとか、あるいは子どもの声を騒音とみなさないような、ドイツにありますけれども、特措法等を制 定していくということが必要なのではないかなと思いますので、まず第一歩として、こうしたことを検討する研究会みたいなものを発足していただけないかなと 切に要望したいと思っております。どうぞよろしくお願いします。

以下私見として二点。

まず最初に住民の反対運動が「過激化」しているという表現について。
なにかの傾向が変わったというとき、提示しなければならないのは二つの時点での傾向であり、それらの比較によってはじめて可能であると考える。例えば「チンパンジーが高度に知性化した」というとき、過去のチンパンジーの集合と、現在のチンパンジーの集合の知性を比較し、それによってはじめて高度に知性化したということが出来る。特殊な天才チンパンジーの一例を挙げて、全体が高度に知性化したということはできない。駒崎氏はこれと同様の誤りを犯しているように見える。部分と全体との混同である。
「これに似たような、近似するような事例というのはぼこぼこ挙がってきている」ということのようだが、証拠が皆無である以上、その証言の真偽は不明というほか無い。野生にも天才チンパンジーはごろごろいるという証言が一体どれだけの意味を持つのか。確実な事実としての事例は逮捕者の出た一例だけのようである。また、本当に「常軌を逸している」状態にあるのならばなぜそれが報道に出ないのだろう。

次に、防音化支援を求める一方、子供の声を騒音とみなさないような法の制定を求めている点について。
この二つはまったく矛盾している。防音化が必要ならば、それは子供の声も騒音になりうるということではないのか。騒音でないならば防音など必要ない。逆に、防音が必要なほどの騒音があるならば、法で騒音としてみなさないとすることには大きな問題があるのではないか。
何故このような矛盾した要求を氏はするのだろうか。

 この時考えたいのは、保育園などにおける「子供の騒音」問題は、誰がそのコストを払うのか、という問題でもあるということである。神戸での保育園の騒音訴訟を担当する弁護士のブログ記事も参照して欲しい(リンク)。そのコストを近隣住民が払うのか、当事者である保育園の事業主あるいは利用者が払うのか、または社会全体でそのコストを負担していくのかという幾つかの選択肢が考えられる。

この点で、駒崎氏の姿勢は一貫している。
つまり防音化支援の政策メニューが必要ということであればそれはコストを社会全体で払うべきだということであり、「子どもの声を騒音とみなさないような」法が必要ということであればそれは苦痛を我慢させるという形でそのコストを近隣住民に押し付けるということである。共通するのは本来防音について責任を持つべき当事者である保育園の事業主という選択肢が存在しないということである。ここには当事者である事業主の責任意識はまるで感じられない。
あるいは駒崎氏の表現を借りれば「無責任化する保育事業主 」ということがいえるかもしれない。これが全体的な傾向でないことを祈るばかりである。